ホンネ哲学~天命とゆるしの美しさ~

「生きる」ということを、「ことば」にしてみる。

コンサルの本質は、「祈り」なのかもしれない。

人は、じぶんの無力さに気づいたときに、祈る。

 

「けっきょくは、なにもできないのだ」

 

という諦めに似たさとりが、人を祈りに向かわせる。

 

コンサルやコーチングという仕事をしながら、

 

「けっきょく自分がやっていることはなんだろう?」

 

ということを考えていた。

 

コンサルとかコーチングって結局なんなのか。

 

「ゴール達成のサポート」
「売り上げアップ」
SNSの使い方を教える」…


どれも本質ではない感じがしていた。

 

「けっきょくのところ、何をしているのか」

 

という結論に達しないでいた。

 

しかし、先日

 

「コンサルとは、”祈り”なんだ」

 

という言葉が降りてきた。

 

それは、自分の無力さに絶望したんだと思う。

 

人が人に何かをしてあげられることは、かなしいほどに少ない。

 

たとえば愛する子どもが病気になっても、親は変わってあげることはできない。

 

せつない恋の悩みも、受験の苦しみも、思った以上にしてあげられることはない。

 

そこでできることと言えば、やはり祈ることしかないのだ。

 

そしてきっと、コンサルやコーチングも同じで。

 

もちろん、自分のできる範囲で、精一杯対応させていただく。

 

最新ビジネス情報、SNSの知識、WEBマーケティング

 

勉強もするし、お伝えさせていただく。

 

でも、それだけじゃどうにもならないことの方が多くて。

 

メンタル面のサポートも、カウンセリング的なこともさせていただく。

 

でも、「そういう話じゃない」段階もあって。

 

そうなってくると最終的にはクライアントさんの

 

「地力」

 

を”信じる”しかなくて。

 

「かならずできるはずだ」という思いを保持する。

 

それは月並みなことばで言えば

 

「尊敬と信頼」

 

なんて言うんだろうけど。

 

しかし、それを言葉にしてしまうと、あまりにも軽い。

 

ただただ、この体感覚のなかで、ジワジワと、ハラの底で、

 

「だいじょうぶ」

 

を繰り返す。

 

ここに「祈り」の本質があるんじゃないだろうかなんて、今は考えている。

 

しかし「誰かに信じてもらう」ということは、その人にとって非常な力になる。

 

「何かをしてもらう」ことよりも、

 

「ただ、そばで見守る」

 

ほうが力を与えることもある。

 

 

合気道の極意は「何もしないことである」なんてことも言われるが、コンサルもまさに、

 

「何もしないこと」

 

こそが本質なのかもしれないと感じるのだ。

 

もしそうだとしたら、きっとまだまだ僕の関わりは「やりすぎ」なんだろう。

 

「教えたい」「教えなきゃ」

「伝えたい」「伝えなきゃ」

「なんとかしてあげたい」

 

そんな気持ちが強いんだろうと思う。

 

もちろん、そういう熱い思いのサポートが必要なときもあるだろう。

 

しかし、人間真理、宇宙真理に少しでも触れたいぼくとしては、もっともっと洗練されたコンサルを目指したい。

 

整体の達人だった野口晴哉は、

 

「なるべく少ない関わりで変化させるのが高級な整体だ」

 

というようなことを説いていた。

 

ぼくもそのようなありかたを、目指したいと思う。

 

 

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謙虚に生きるとは、あきらめることなんだ。

最近になって

「やはり文章を書いていこう」

という気持ちになった。

 

人には才能がある。

 

はなす才能。おどる才能。うたう才能。絵をえがく才能。

 

それぞれの人が持つ、美しさの花がある。

 

そしてどうやら、ぼくには「書く」才能があるらしいことを認めざるを得ない状況になってきた。

 

20代の半ばから

 

「本を書かないの?」

 

とよく言われていた。

 

「本を書いてくれた読むのに」

 

と。

 

しかし、書くテーマがなかった。

 

20代半ばの、ふつうの本屋の兄ちゃんが書いた人生哲学の本なんて、誰が買うだろうと思っていた。

 

しかし、いま40代を目前に控え、あのときからおよそ15年の月日が経ち、いろいろな事業をしつつ、2020年には会社も立ち上げた。

 

結婚をし、子どもを持ち、家を建てた。

 

もしかしたら、そんなオッサンの人生哲学なんぞを読んでくれる人がいるかもしれないと思うようになった。

 

いや、もはやここまで来たら、「読んでくれる人がいなくてもいいのではないか」とさえ、思うようになった。

 

もとより、誰にも見せない日記をながく書いていたのだ。

 

中学校の卒業式の日。

 

あまりの心のゆらぎをうまく取り扱えずに、ついノートを開いてペンを取った。

 

思えばそれがはじまりで、2005年にブログを書き始めるまで1日1ページの日記を書いていた。

 

それがぼくの文章家としてのはじまりだった。

 

’98年、平成9年のことだから、もう20年以上も前のことになる。

 

「書きたい」というよりは「書かざるを得ない」ような欲求に突き動かされ、毎日ノートに思いを綴っていた。

 

いま、その少年の思いから脈々とつながる、ひと連なりの「魂」のようなものを感じて、深い感慨の中にいる。

 

昨晩ふと思ったことがある。

 

「謙虚に生きるってのは、あきらめることなんだ」と。

 

そして、「あきらめる」とは才能を認めることなんだと。

 

それはつまり「他者、周りからの声」で動くということでもあるんだと。

 

そこに「無我」がある。

 

ぼくが合気道でも「悟り」の世界でも、もとめてやまなかったもの。

 

無為自然、無我、無私、梵我一如…

 

その世界観を、「書く」というステージの中でおこなっていけばよい。

 

身体ワークのなかでは為しえなかった「合気」の世界を、「ことば」という土俵で展開していけばいい。

 

なんだか、そんな深い気づきの中にいる。

 

そのようなわけで、またこのブログを再開し、つれづれなるままに、思ったことや気づいたことを記していきたいと思う。

 

興味を持ってくれる人がいれば、まことに幸いである。

 

 

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人類の99%以上は、あなたに興味がありません。

あなたを大切にしてくれる人を、大切にしよう

 

人類の99%以上は、あなたに興味がありません。

 

そして、あなたの価値観に共感しないし、

なんなら反発してきます。

 

でも時に、あなたのことを好きになってくれて、

 

「いいな」

「好きだな」

 

と思ってくれる人がいます。

 

それって、すごく嬉しいことですよね。

 

でも僕らはつい、圧倒的多数である

 

「私に興味を持たない99%」

 

にフォーカスしてしまうんです。

 

そして、

 

「私には価値がない」

 

と思ってしまいます。

 

けれどもそれは勘違いで、実際は

 

「自分のことを好きになってくれる1%」

 

を観ていないだけなんです。

 

あなたを大切にしたい人は、います。

 

どうか、あなたを大切にしたい人と向き合ってみてください。

 

 

抽象的なサービスに価値はあるのか?

世の中には、というかSNS上には抽象的なサービスが多いものだ。

 

「心と体をラクにします」
「人生のゴール達成のサポートをします」
「あなたの幸せ度が上がります」

 

正直よく分からないし、依頼する気にもならない。

 

抽象的なサービスというのは、

 

「何にお金を払うか」

 

が非常にあいまいだ。

 

「あなたの幸せ度が上がります」

 

といってサービスを受けたとして、

 

何をもって「幸せ度が上がった」と言えるのか。

 

この評価は非常に難しい。

 

けれども、そこに「価値」がないとは言えない。

 

なぜなら、「話す」ことそのものに価値があるからだ。

 

だから抽象的なサービスは、

 

「なんかよく分からないけど、クライアントさんが良い気持ちになったらOK」

 

というような代物になる。

 

翻って、コンサルについて考えてみる。

 

俺が今やらせてもらっている「ビジネスコンサルティング」。

 

主に、SNSのサポートが多いけれども、そのためには

 

「コンセプトやターゲット設定」

「人生のゴール設定」
「トラウマの処理」

 

など、どうにも目に見えないことが多い。

 

となると結局「よく分からない抽象的サービス」を提供していることになるのよね。

 

で、ときに「これは何をやっているんだろう」と考える。

 

「ホンネを引き出す」

 

って結局なんなんだろうか?

 

そんなことをすこし考えてみたい。

 

そこにはひとつ「解釈」の問題がある。

 

「見方」

 

によって心も体も、いや世界すらもが変わってしまう。

 

だからここは非常に大事で。

 

 

ああ、そうか。

 

「天の視点」

 

で触れ、「天の視点」に戻ること。

 

 

これこそが、「本音コンサルティング」なんだ。

 

だから、コンサルタントは「天の視点」をマスターする必要がある。

 

 

完璧じゃなくてもね。

 

では「天の視点」の最大の特徴は何か?

 

それは「ゆるし」だと思う。

 

右と左、前と後ろが等価になっている。

 

どちらもOK。

 

ここにバランスがあり、ゆるしがあり、軽やかさがある。

 

これは「人間的想い」の対義語になるね。

 

そして、「天の視点」ということは「じぶんの観察」でもある。

 

で、観察とは「ゆるし」でもあるわけだ。

 

そして「天命」とは「自分をどう使うか」ということでもある。

 

その視点に入る。

 

それこそが「ホンネ」なんだよね。

 

だから、俺なら「おぜっきー」のホンネを探っちゃいけない。

 

「おぜっきー」が何を言おうとも、「するべき仕事」をやらせる。

 

これがホンネの生き方でもあるね。

 

よし、これを伝えてみよう。

反射しない生き方

気楽に生きるってのは、心身の「反射」を消していくってことなのよね。

 

俺らは生きていくなかで、「オートマチックな反応」を学習していくのよ。

 

それは「そのとき」には必要なことが多い。

 

主に幼少期においてね。

 

「死なないための学習」

 

をしているんだよ。

 

で、その「オートマチック機能」が、大人になってもずっと機能していたりする。

 

もうよっぽど不要になっていても、

 

「死なないため」

 

と学習しているから、そう簡単には手放せない。

 

それが「反射」なんだよ。

 

考えていたら間に合わない。

 

だから「パッと反射」できるように学習している。

 

 

それを手放すのは怖いよね。

 

だから徐々に手放していく。

 

「それ、やらなくても死なないよ」

 

「あれをやっても死なないよ」

 

そういうことを再学習していく。

 

すると「オートマチックな反射」が徐々に消えていく。

 

それがフラットな生き方への道しるべなんだ。

コーチングは傲慢なのか?

コーチングの語源はハンガリー語のコチ(馬車)というところからきているらしい。

 

で、どこかに「導く」という響きを抱えている。

 

しかしセッションを重ねるなかで

 

「導く」

 

というのは、いかにも傲慢なのではないかと感じてきている。

 

 

いま俺が考えている範囲では

 

「共鳴を起こす」

 

というのが、いちばんシックリくる表現だ。

 

周波数を合わせる。

 

相手に集中しつづける。

 

そこで起こることを観察する。

 

こうなってくると、けっきょく「合気道」と「整体」と一緒なのよね。

 

 

やはりコミュニケーションには

 

「正解」

 

があるのかもしれない。

 

 

ある空手の先生が「発信をゼロにする」ということをおっしゃっていた。

 

これは「気配を消す」とも共通することではないかと思う。

 

コーチングにおいても、こちらが「無」になることによって、相手の自立をうながす。

 

指示を出せば、さらに依存する。

 

 

で、そういうことを考えていくと

 

「この人に共鳴したい!」

 

と思えるような人になることがコーチとしてのゴールなのかなと思ったりする。

 

 

自らの人間的成長がコーチとしての成長。

 

それが、クライアントさんの成果に直結する。

 

なかなか厳しい世界だね。

知識を得ることの弊害

「知る」ということは「学ぶ」の一部である。

 

学ぶということは、「知る」ことにはじまり、「わかる」段階に至り、「できる」から「できている」の状態へと進む。

 

それを無意識的無能から意識的無能、意識的有能から無意識的有能へ、などと表記する人もいる。

 

いずれにせよ、それらすべてのステップを経るのが

 

「学ぶ」

 

だと言える。

 

だから「知る」ことにとどまるものは、「学ぶ」のことをしていないのと同じだ。 

 

「知る」で止まって「できる気」「分かった気」になるくらいなら、知らない方がマシだ。 

 

 

無知の知とはよく言ったもので、「知らない」と認識するほうが伸びるものだ。 

 

「知る」ことの危険性と弊害を、よくよく吟味すべし。