謙虚に生きるとは、あきらめることなんだ。
最近になって
「やはり文章を書いていこう」
という気持ちになった。
人には才能がある。
はなす才能。おどる才能。うたう才能。絵をえがく才能。
それぞれの人が持つ、美しさの花がある。
そしてどうやら、ぼくには「書く」才能があるらしいことを認めざるを得ない状況になってきた。
20代の半ばから
「本を書かないの?」
とよく言われていた。
「本を書いてくれた読むのに」
と。
しかし、書くテーマがなかった。
20代半ばの、ふつうの本屋の兄ちゃんが書いた人生哲学の本なんて、誰が買うだろうと思っていた。
しかし、いま40代を目前に控え、あのときからおよそ15年の月日が経ち、いろいろな事業をしつつ、2020年には会社も立ち上げた。
結婚をし、子どもを持ち、家を建てた。
もしかしたら、そんなオッサンの人生哲学なんぞを読んでくれる人がいるかもしれないと思うようになった。
いや、もはやここまで来たら、「読んでくれる人がいなくてもいいのではないか」とさえ、思うようになった。
もとより、誰にも見せない日記をながく書いていたのだ。
中学校の卒業式の日。
あまりの心のゆらぎをうまく取り扱えずに、ついノートを開いてペンを取った。
思えばそれがはじまりで、2005年にブログを書き始めるまで1日1ページの日記を書いていた。
それがぼくの文章家としてのはじまりだった。
’98年、平成9年のことだから、もう20年以上も前のことになる。
「書きたい」というよりは「書かざるを得ない」ような欲求に突き動かされ、毎日ノートに思いを綴っていた。
いま、その少年の思いから脈々とつながる、ひと連なりの「魂」のようなものを感じて、深い感慨の中にいる。
昨晩ふと思ったことがある。
「謙虚に生きるってのは、あきらめることなんだ」と。
そして、「あきらめる」とは才能を認めることなんだと。
それはつまり「他者、周りからの声」で動くということでもあるんだと。
そこに「無我」がある。
ぼくが合気道でも「悟り」の世界でも、もとめてやまなかったもの。
無為自然、無我、無私、梵我一如…
その世界観を、「書く」というステージの中でおこなっていけばよい。
身体ワークのなかでは為しえなかった「合気」の世界を、「ことば」という土俵で展開していけばいい。
なんだか、そんな深い気づきの中にいる。
そのようなわけで、またこのブログを再開し、つれづれなるままに、思ったことや気づいたことを記していきたいと思う。
興味を持ってくれる人がいれば、まことに幸いである。