ホンネ哲学~天命とゆるしの美しさ~

「生きる」ということを、「ことば」にしてみる。

言葉にできない思いは、言葉にしなくてもいいのかもしれない。

ぼくはお酒はほとんどダメです。

ビールやカクテルなら2杯が限界。

焼酎のお湯割り、日本酒なら1杯が限界です。

昨日は、スペインのワインとやらをグラスに半分くらいもらいました。


しかし、飲み会というのは面白いもので。

11名が飲み食いしながら話すというのは、

ものすごく

「気」

を使うのですね。


それは「周りの人のことを考えすぎて疲れる」という意味ではなく、

「大量のエネルギーが交流する」

ということです。


ちなみに僕は

「対面」

にはそこまで重きを置いていません。



気に関しては、

「オンライン」であろうが「対面」であろうが、

特に違いはない。

そう考えています。


しかし、

「やはりリアルのほうがエネルギーが伝わりやすい」

という方もいますね。


これは考え方しだい。

おぜっきーさんは、どっちの考え方ですか?


まぁ、いずれにせよ、11人が話をすると、

大量のエネルギーが交錯するわけです。


するとね、その状況というのは、

「とても言葉にできない」

のです。


ホントね、「この世界」というのは、

「情報量」

がものすごいのです。


で、そこまでの大量の情報は処理できないので、

「ことば」

があるわけです。


「ことば」っていうのは、

「圧縮ファイル」

みたいなものなんですね。


状況を切り取り、整理して、分かりやすくするもの。


実際の虹は何万色ものグラデーションだけど、

「とりあえず7色ということにしておこう」

とやって、

「認識しやすくする」

のが言葉の本質なんです。


ほんでね、昨日の飲み会なんかも情報量を削って考えると

「楽しかった」とか

「騒がしい宴会だった」なんて

表現できるわけです。

しかし、実際には真剣な場面もあったり、静かな人もいたりするわけ。


だから

「ことばにすると、情報から漏れるものがある」

のよね。


これが、「ことばの欠点」なの。


伝えようと思って「ことば」にしたことで、

逆に伝わらなくなってしまうことってある。


「愛してる」と「ありがとう」を

口にした途端に、どこか軽々しくなってしまうことってある。

「かなしくて、いとしくて、せつない」気持ちは、

言葉にせずに、しまっておきたいこともある。


だから俺は、言葉にすることが得意だけど、

ときに言葉にすることをためらうこともあるの。


「それって、あえて言葉にすること?」

って疑問に思ったりもする。


言葉にすることによって失われてしまうものが
あまりに多いとき、

「ことばにしない」ということも、

きっと「ひとつのことば」であり表現なんだよね。


ただね、それでも俺は

「ことばにしたい」

んだよね。


これは天命というか、定めというか、

性分なんだと思う。

「言葉はいつでもかならず”不完全”で、極限までホンネで話しても“嘘”になってしまう」

これが事実なんだよね。


だからこそ俺のことばには、

「せつなさ」

があってほしい。


「言葉にしたいけれど、できないものがある」

その「せつなさ」こそが、

「ことば」

の美しさの根源だと思うんだ。


だからもしおぜっきーさんが

「言葉にすることが苦手」

だとしても、

むしろ「苦手なままで」、

不器用なままで、伝わらないもどかしさを大事にしながら、

表現してみてほしいと思うんだよね。

 

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