ホンネ哲学~天命とゆるしの美しさ~

「生きる」ということを、「ことば」にしてみる。

僕(しもべ)としての生き方~行に生きる~

ほとほと、じぶんの身勝手さがイヤになることがある。

 

「今日から誰かのために生きる!」

 

と心に誓い、他者の喜びや社会への貢献を考えているのに、気が付けば

 

「自分勝手な思考」

 

にハマり、不協和音を奏で、そして自己嫌悪に陥る。

 

そんなことを何度も繰り返している。

 

なんて愚かなんだろうと情けなくなるが、ある意味、不精な凡人だから仕方ないかと、半分あきらめてもいる。

 

そんななか、物理学者の保江邦夫さんが著書の中で書かれていた

 

「僕(しもべ)として生きる」

 

というフレーズをふと思い出した。

 

彼はキリスト教の人だから、「しもべ」という表現なんだろうが、これはなかなか老荘思想や仏教にも通ずるものがある。

 

ぼくが、かねてより求めてやまないのは

 

無為自然

 

という感覚である。

 

道元の云う「身心脱落(しんじんだつらく)」。

 

一体それはどんな境地なんだろうかということに、いたく好奇心を寄せている。

 

たぶんそのために合気道があった。

 

そして今はビジネスコンサルとして

 

「無為のビジネス」

 

というものを追求している。

 

で、そこに「しもべ」という素敵なフレーズが舞い降りてきたというわけだ。

 

それはつまり「主人をやめる」ということを意味する。

 

先日、妻と小競り合いがあった。

 

そのときもけっきょく、僕の「身勝手さ」があった。

 

それでもう、ほとほと自分に嫌気がさしてきたときに

 

「そうだ、主人をやめよう」

 

と思ったのだ。

 

俺が主人だ、俺が稼いでいるんだという意識が少しでもあるからこそ偉そうにしてしまう。

 

気を遣うのではなく、気を遣われたいと期待してしまう。

 

けっきょく夫婦ゲンカの元凶はそこにあるわけで。

 

じゃぁ主人を降りて逆に「しもべ」になってしまえば、諍いもなくなるのではないかというのが、ぼくの仮説だ。

 

しかし、そう簡単に言っても、実践はいかに難しいか。

 

「わたしは、しもべです」

 

と宣言したとしても

 

「そうは言っても俺が」

 

という気持ちが恥ずかしいほどにムクムクと湧き上がってきてしまう。

 

これは、まさに「行」であり「修業」である。

 

ただ、個人的には「行」「修業」なんてフレーズに心が躍るタイプなので、あえて積極的に、そして趣味的に、「行」を楽しんでいきたいと思う。

 

さて、この気づきから、どこまで体に落とし込めるか、自分でも「見もの」なのである。

 

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