ホンネ哲学~天命とゆるしの美しさ~

「生きる」ということを、「ことば」にしてみる。

「あり方」から世界が創造されている。失敗パタンから抜け出せ!

「あり方」というのは、本当に深い。

 

あり方が、世界を創造している。

 

あり方とは、「姿勢」とか「意識」「設定」などと言い換えることができる。

 

 

そこが「ホンネ設定」になっているかどうかで、現実が全部決まってくる。

 

ウソで生きる人は、ウソの現実を創り出し、また嘘を創出する。

 

そして、ウソサイクルが強化される。

 

ホンネで生きる人は、ホンネの現実を創り出し、ホンネを深めていく。

 

だからまずはホンネサイクルに飛び込むことが重要だ。

 

 

しかし「あり方」は見えないから、難しい。

 

あり方は「目に見えない設計図」だ。

 

 

だから逆に「現実」を見ればどんな設定になっているかはわかる。

 

まずは、それを言葉にしていくところからだ。

 

 

すると、「見たくない現実」が見えてくるだろう。

 

そこを苦しみながら見るか見ないか。

 

苦しみながら現実を見つめる人は、徐々にでも現実を変えていける。

 

苦しみをごまかす人は、同じ現実に苦しむ。

 

 

受け入れ難きを受け入れ、ゆるしがたきをゆるし、認め難きを認める。

 

 

ここに成長のカギがある。

 

「痛い事実」を見つめることができるか。

 

 

これが人生の充実感のカギを握っている。

 

 

俺は、逃げない人とともに生きる。

 

「逃げグセ」のある人と付き合わないことだ。

 

逃げグセのある人は、傷のなめ合いを好む。

 

 

それは「無限の可能性」に対して邪魔でしかない。

 

俺は一生涯を通じて「精神の高み」を目指したいから、傷のなめ合いをする人とは一緒にいられない。

 

 

さらにホンネをピュアに、シャープにしていく。

 

それはストイックなまでの修行なのだ。

「正しい答えなんてない」という逃げ。

ちゃんとモノサシ(価値基準)を持っていれば、かならず正解と不正解はある。

 

すべてOKなんておかしい。 

 

たしかに、どこに価値基準を置くかは完全に自由。

 

しかし、その基準を定めたのであれば、あとは厳しくジャッジすべきだ。

 

すべては

 

「どこにモノサシを置くか」

 

それをどこまで丁寧に定めることができるか、だね。

コーチングにおける「さりげなさ」の美学。

人とのかかわりの中で大切なのは

 

「さり気なさ」

 

何だと思う。

 

「意識」や「作為」が強いと、相手の抵抗を受けてしまう。

 

だから「言いたいこと」は直接言わない。

 

いや「直接言って伝わる」なら言えばいいが、ほとんどは抵抗が起きてしまう。

 

だから、「さり気なく」伝える。

 

そこにはいろいろな方法があるだろう。

 

「質問という形をとる」とか

 

「ひとりごとっぽくいう」とか

 

「メタファーにする」とかいろいろある。

 

 

しかし、いずれにせよ、そのさりげなさに

 

「美しさ」

 

がある。

 

 

俺はそれを追求していきたいと思う。

 

 

40を前にして

 

「人を育てる」

 

という仕事が増えてきた。

 

これも「おっさん」の役割なのかもしれない。

 

「指導する」「導く」

 

ということは、本当に難しくやりがいのあることだ。

 

今までそういうことを避けていたけれど、

 

ついにそのステージに来たなという気はする。

 

なんとなく、この流れを大事にして、

 

「人育て」

 

の道を慎んで歩んでいこうと思う。

「これが自分だ」と思ってる自分、99%外れてる説

じぶんのことなど、自分で見えないよ。

 

「見えている」と思ったとたんに、見えない部分が出てくる。

 

「じぶんのことは、自分がいちばんよくわかってる」

 

なんてことを言ったのはどこのどいつだい?

 

 

そんな甘い世界じゃないよ。

 

背中のことは、見えないから。

 

「アンタの背中、こんなんなってるよ」

 

そうやって、認めたくない「背中」を見なきゃ、肉体は保てない。

 

 

「自分」はどこまでも掘り下げることができる。

 

「自分が大切にしたいもの」

「本当に欲しいモノ」

 

だって、そうそうわかるもんじゃない。

 

 

「あれ、俺って何がしたかったんだっけ?」

 

人はたやすくゴールを見失う。

 

それだけエゴにまみれてるってことさ。

 

まずはそこへの気づきだね。

 

エゴに対処するのはそれからだ。

 

たいそうな美人が、泥まみれな自分の顔をみて、

 

「私の肌は泥の色だ」

 

なんて言わないのよ。

 

顔を洗えば、泥の下にステキな顔が隠れてるんだから。

 

汚れはあなた本体じゃない。

 

でも「私はけがれている」って感じる人が多いね。

 

そういわずに泥を落とせばいいじゃない。

 

そしたら、きれいな顔がポット浮かんでくるよ。

【人間の成長と進化】「褒める」という「麻薬」

最近とみに

 

「褒める」

 

ということの弊害を感じている。

 

誰しも、褒められれば気持ちがいい。

 

嬉しい。

 

気分が上がる。

 

 

しかし、その反面、

 

「また褒められたくなってしまう」

 

という弊害がある。

 

そのループにハマると

 

「褒められたい」

 

という欲求が肥大してしまって、

 

「本当にやりたいこと」

 

が分からなくなる。

 

==========

 

「褒める」ということは、人に価値観を植え付けることだ。

 

「それは良い」

 

ということを示せば、逆に

 

「そうじゃないことはよくないこと、悪である」

 

ということも教えることになる。

 

すると、ほんらい自分が持っている価値観や欲求が分からなくなってしまうのだ。

 

 

だからこそ、子育てでも、人材育成でも、コーチングでも、

 

「褒める」

 

ということは、よーく考えて慎んで使う必要がある。

 

 

「褒める」ということは、まさに麻薬なのだ。

 

下手をすれば「中毒」になってしまう。

 

またうまく使えば「人を依存」させる事にも使えるだろう。

 

洗脳にも使えるかもしれない。

 

 

けれども、依存関係に陥った人々が幸せになることはない。

 

人の幸せは「自立」の中にしかない。

 

 

では「自立」とはなんなのか?

 

それは「じぶん自身の価値観に気づいていること」である。

 

「私は何が好きなのか」
「私は何を大切にしているのか」

「私は何を欲しているのか」
「私は何をしたいのか」

 

そういったことに明確に答えることができる。

 

それが「自立」であると考えている。

 

その答えが明確に分からない限り、

「納得のいく人生」

「充実感のある人生」

ありえないだろう。

 

逆に「回答」が明確であれば、依存関係に陥ったり、騙されたりすることが極端に減る。

 

すべては

 

「自らの価値観を知ること」

 

からはじまるのだ。

 

で、「褒める」ということは、その方向性とは逆になってしまうということだ。

 

 

褒められれば褒められるほど、人は自分の価値観を見失う。

 

自立とは「褒められること」に依存しなくなることだと言える。

 

「褒め」に対して、過剰に喜びもせず、受け取りを拒否することもなく、

 

「ああ、そうですか、ありがとうございます」

 

と答えることができる。

 

 

これが自立の一つの形だろうと思う。

 

かといって、「そのように演じ」ればいいというものではない。

 

 

心を空っぽにして、実際に

 

「そのようになっている」

 

というのが理想だと言えよう。

 

 

もちろん、ぼくにはまだまだ遠い話で、今日も人の毀誉褒貶に一喜一憂するのである。

 

 

左脳的学習法【お勉強】から右脳的学習法【実学】へ

わたしゃ最近おもうんだけどね、どうも

 

「左脳的学習法」

 

っていうのは効率が悪いと感じるんですよ。

 

たとえば大学を卒業した人だと英語を10年以上勉強していたりするわけじゃない。

 

だけども、さっぱり話せない。

 

そういうことってある。

 

なんていうのかな、「マジメ」に授業受けて、論理的に文法学んで、ノート取って…

 

そういう学習法を「左脳的」と表現しているわけですけれども、どうも効率悪いよね。

 

 

ビジネスなんかもそうだけど、起業塾いって、「やり方」を一生懸命に「覚えて」、理論を「知って」…

 

そんなんでできる人おらんでしょ。

 

やっぱりさ、いちばん学びがあるのって

 

「実践」「現場」

 

じゃない?

 

 

英語もそうよね。10年「左脳的に」学ぶより1年間留学したほうが覚えるよね。

 

英語圏のカノジョを作るのもいいだろうし、とにかく「やってみる」ということ。

 

人間の脳って、そうやって学ぶ時がいちばん学習効率が高いと思う。

 

 

合気道だってそうやん。

 

何冊本を読んでもうまくならんよ。

 

やはり道場に行って稽古しないとね。

 

 

なんでもそうやない?

 

その意味で、最近は本を読んでマジメに学習する気がなくなってしまった。

 

それよか、しれっと読んで覚えているかいないかくらいかのほうがいい。

 

コーチングなんかもそうなのよね。

 

海外のコーチングの本とか読んでいるけれど、こんな堅苦しい理論を学んだところで人間心理や行動のサポートなんてできるんかいなと疑問に思う。

 

まぁ、できないから「コーチング講座ビジネス」になってしまうんだろうけどね。

 

 

その本に書いてあった

 

「なぜ、ロクに学んでいないのに出来てしまう人がいる一方で、しっかり学んでも出来ない人がいるのだろうか」

 

という問いが深く刺さったよ。

 

ホント、そういうことってあるよね。

 

整体でもカウンセリングでもコンサルでも、

 

「きっちり学ぶ」ことと、「現場でできる」っていうのは違う。

 

心理学なんて一文字も学んでいないのに、人間心理に精通している人もいれば、

 

逆に「心理学をみっちり学んだ」のに、人の心がこれっぽっちも理解できていない人もいる。(むしろコミュニケーション的にやばくなっている人もいる)

 

 

こういうことを考えても、「左脳的学習法」というのは、効率が悪いだけじゃなく、むしろ害悪になることもあるって覚えておいた方がいいよね。

 

だから何かを身に着けたいなら、「実践的学習」「右脳的学習」を心掛けたほうがいいと思う。

 

俺の講座は、なるべくその形にしているよ(^_-)-☆

 

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ホンネ哲学ブログ、はじめます。

ぼくは、モノゴトを考えるのが好きなのです。

 

高校に入学するあたりから悩み始めて

 

「生きるとは何か?」

 

「人はなぜ生きるのか?」

 

「よく生きるとは何か?」

 

そんなことを20年以上、考え続けてきました。

 

そのせいか、よく

 

「文章が面白い」とか

 

言語化が上手い」と

 

言われるようになりました。

 

そこで今回、改めて

 

「おぜっきー哲学」

 

というものを披歴してみたいと思います。

 

普段はいわゆるビジネスコンサルタントとして活動していますが、合気道をやってみたり、ボディワークの講座をやってみたり、色々やっています。

 

が、今回はあまり仕事を絡めずに、ただただ

 

「ホンネ哲学について書いてみる」

 

ということをやってみたいと思います。

 

僕の日記のようなものですね。

 

お暇なときに読んでみてください(*^-^*)

 

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